❖ 親鸞聖人の教えの中心は「信」

親鸞聖人の語録的著書である『歎異抄』には、「本願を信じ、念仏を申さば仏となる」、あるいは「信ずれば助かる」と明言されています。
ところが、一般的に仏教がどのように受け止められているかといえば、難しいお経を覚えたり、苦しい修行の経験を積んだり、欲望を切り捨てなければ入門できないものだという固定観念があります。
これは困ったことです。親鸞聖人の教えは、そういう人間の経験や能力をまったく問題にしていません。
もし、そういう能力や経験を問題にするのであれば、仏教が「エリートの仏教」になってしまいます。苦行ができる体力や知力や、精神力のある優れた人間だけが救われる教えになってしまいます。それでは、まったくお釈迦様の教えとほど遠いことになります。 生きとし生けるものすべてが助かる教えでなければ、仏教とはいえません。
時代を超え、民族を超え、地域を超え、能力や性別を超えて、平等に助かってゆく教えでなければ、仏教とはいえません。

❖ とてもデリケートな信仰の世界「信心」

浄土真宗は、ただひとつ「信心」の徹底ということだけが、もっとも重要なこととされています。 仏さまが、「助けてあげよう」といっても、その言葉を信じて受け入れるということがなければ、救いは成就しません。まず、「信心」ということが大切なのです。
しかし、これも世間では、固定観念があります。
「信心」というと、「鰯の頭も信心から」などという諺もあるように、なんでも信じ込めば有り難くなるというような、安直な意味で理解されています。
理性をかなぐり捨てて、「ありがたや、ありがたや」と頼んでいれば、幸せがくるというようなご都合主義が「信心」ではありません。 それでは、人間の「ああなったらいいなあ、こうなったらいいなあ」という欲望を叶えるために、仏様を利用しているだけに過ぎません。
あるいは「あの人は信心家だからね」などといわれたりします。
お墓参りを欠かさないとか、朝晩の読経をきちんとするとか、法事をちゃんとするとか、そういう人を世間では信心家といったりしますが、それと親鸞聖人のいわれる「信」とは直接関係していません。そういう世間的な仏事をちゃんとすることも大切なことです。しかし、その前に、仏事を執り行うこころはどのようなこころなのかを問題にするのが親鸞聖人のいわれる「信」の世界なのです。
ただ、生活習慣となっているからやっていることなのか、それとも、本当の「信心」から起こってきたことなのか。そういう吟味がもっとも大切なことなのです。ですから、きわめて内面的なことです。外見からはなかなか分からない、とてもデリケートな信仰の世界が「信心」の世界です。

お釈迦様のエピソードにも「貧者の一灯」というお話があります。
お釈迦様をもてなすために、お金持ちは、たくさんの灯火をつけました。しかし、強風にあおられて、すべて消えてしまいます。ところがひとつだけ消えなかった灯火がありました。
それは貧しい少女が供養した、たったひとつの灯火だったのです。
お釈迦様は、仏教というものは、たくさん供養できるとか、できないという外見上の問題ではなく、ひとりでも本当の信心を獲得するということが最重要なことだと教えたのでした。


■宗名(しゅうめい)浄土真宗( じょうどしんしゅう)
■宗祖(しゅうそ)親鸞聖人(しんらんしょうにん)
ご誕生(たんじょう)1173年5月21日(承安(じょうあん)3年4月1日)
ご往生(おうじょう)1263年1月16日(弘長(こうちょう)2年11月28日)
■宗派(しゅうは)浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)
■本山(ほんざん)龍谷山(りゅうこくざん)本願寺(ほんがんじ)(西本願寺(にしほんがんじ))
■本尊(ほんぞん)阿弥陀如来(あみだにょらい)(南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ))
■聖典(せいてん)釈迦如来(しゃかにょらい)が説(と)かれた「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』
『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』
宗祖親鸞聖人(しゅうそしんらんしょうにん)が著述(ちょじゅつ)された主(おも)な聖教(しょうぎょう)
『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』行巻末(ぎょうかんまつ)の偈文(げもん))
『浄土和讃(じょうどわさん)』『高僧和讃(こうそうわさん)』『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』
中興(ちゅうこう)の祖(そ)蓮如上人(れんにょしょうにん)のお手紙(てがみ)
『御文章(ごぶんしょう)』
■教義(きょうぎ)阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願力(ほんがんりき) によって信心(しんじん)をめぐまれ、念仏(ねんぶつ)を申(もう)す人生(じんせい)を歩(あゆ)み、この世(よ)の縁(えん)が尽(つ)きるとき浄土(じょうど)に生(う)まれて仏(ぶつ)となり、迷(まよ)いの世(よ)に還(かえ)って人々(ひとびと)を教化(きょうけ)する。
■生活(せいかつ)親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教(おし)えにみちびかれて、阿弥陀如来(あみだにょらい)のみ心(こころ)を聞(き)き、念仏(ねんぶつ)を称(とな)えつつ、つねにわが身(み)をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のうちに、現世祈祷(げんぜきとう)などにたよることなく、御恩報謝(ごおんほうしゃ)の生活(せいかつ)を送(おく)る。
■宗門(しゅうもん)この宗門(しゅうもん)は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教(おし)えを仰(あお)ぎ、念仏(ねんぶつ)を申(もう)す人々(ひとびと)の集(つど)う同朋教団(どうぼうきょうだん)であり、人々(ひとびと)に阿弥陀如来(あみだにょらい)の智慧(ちえ)と慈悲(じひ)を伝(つた)える教団(きょうだん)である。それによって、自他(じた)ともに心豊(こころゆた)かに生(い)きることのできる社会(しゃかい)の実現(じつげん)に貢献(こうけん)する。